髙田たかだ 延彦のぶひこ

高田延彦
出身
神奈川
生誕
1962.4.12
身長
183cm
体重
98kg

1981年に新日本プロレスで髙田伸彦(後に「延彦」に改名)としてデビュー。若手時代にはアントニオ猪木の付き人を務め、道場では主に藤原喜明や前田日明の指導を仰ぐ。

1984年には新しく誕生した新団体「UWF」に移籍。翌年、UWFの活動停止により一旦は新日本プロレスに戻ることになるが、1988年に再び旗揚げしたUWF(第2次UWF)に移籍する。しかし、新生UWFも長続きはせず、前田日明の「リングス」、藤原喜明の「藤原組」、髙田延彦の「UWFインターナショナル」の3団体に分裂することになる。

1991年に旗揚げしたUWFインターナショナルの社長に就任した髙田は、「プロレスこそ最強の格闘技」を旗印に次々とビックマッチを行っていった。中でも大相撲元横綱の北尾光司との「格闘技世界一決定戦」で、顔面へのハイキックという衝撃的なKO勝利をしたことで一気にブレイクしていった。

1995年には古巣である新日本プロレスとの全面対抗戦に打って出る。メインイベントの大将戦で激突した武藤敬司とのIWGPヘビー級選手権試合は「プロレスvs格闘技」の代理戦争の意味合いも含まれ、会場の東京ドームは最高潮の熱気に包まれた。この試合に武藤の足4の字固めで敗れた髙田だが、翌年の東京ドーム大会のメインで再び武藤と対戦し、今度は腕ひしぎ逆十字固めでリベンジを果たし、第18代IWGPヘビー級王者となった。

UWFインターナショナル解散後の1997年には総合格闘技イベントの「PRIDE」に参戦。400戦無敗と言われた格闘家のヒクソン・グレイシーとの対戦を熱望していた髙田は、遂にPRIDEのリングで実現にこぎ着ける。総合格闘技ルールで行われたこの試合は、「リアルファイトにおけるプロレスvs総合格闘技」の代理戦争の先駆けとなった。この試合に敗れた髙田は、翌年のPRIDE興行で再びヒクソンと対戦しリベンジを狙うが、2連敗を喫してしまう。ヒクソンと3度目の対戦を望むが、実現しないまま2002年に引退する。

引退後はPRIDEやプロレスイベント「ハッスル」にイベント進行役として登場し、個性的なキャラクターと独特な言い回しで会場を盛り上げた。

1998年1月には「髙田道場」を設立し、選手育成にも力を注いでいる。

得意技

PICKUP

▲上に戻る

inserted by FC2 system