力道山りきどうざん

力道山
出身
北朝鮮
生誕
1924.11.14
身長
176cm
体重
116kg

日本プロレス界の礎を築いた伝説的プロレスラー。

現在の北朝鮮に生まれた力道山は15歳で日本の長崎県に移り住み、農家を営む百田家の養子となった。後に日本国籍を取得し、名前を百田光浩(ももたみつひろ)とした。

1940年に大相撲部屋に入門し、16歳の若さで初土俵を踏み関脇まで昇進するが、26歳で相撲界を引退。力士時代の四股名「力道山光浩」はプロレスラー転身後のリングネーム「力道山」の由来となっている。大相撲廃業後は、プロレス開催のため来日していた日系人プロレスラーのハロルド坂田と知り合い、坂田に誘われる形でプロレスラーへと転身することになる。

アメリカでのプロレス修行を経て、1953年に帰国した力道山は日本プロレス協会を設立する。ちょうどこの年、日本では初のテレビ放送が開始された。翌年、全国を巡って開催された初興行がテレビ中継され、日本のテレビ放送に新しい娯楽としてプロレス中継が加わったことでプロレス人気に大きな追い風となり、その人気は爆発的に広まっていった。当時テレビは高級品であったため、街頭テレビには黒山の人だかりができ、得意の空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒す力道山の姿は、戦後間もない日本人の心の拠り所となった。

“鉄人”と呼ばれたルー・テーズ、“プロレスの神様”と呼ばれたカール・ゴッチをはじめ、パット・オコーナー、フレッド・ブラッシーら名だたるレスラーと名勝負を繰り広げた力道山は、1958年にルー・テーズを破り、第2代インターナショナルヘビー級王者となった。インターナショナルヘビー級王座のチャンピオンベルトは日本プロレス最古の至宝と言われ、後にジャイアント馬場に受け継がれ三冠ヘビー級ベルトの1本として加わることになる。

1959年には世界各国の代表的プロレスラーを呼び寄せて開催した総当たりリーグ戦「ワールド大リーグ戦」の第1回大会が行われた。この大会で優勝した力道山は、以降年1回のペースで開催された同大会で5連覇を成し遂げる。

1963年、“白覆面の魔王”と呼ばれたザ・デストロイヤーとのシングルマッチは壮絶なものとなり、力道山の「空手チョップ」とデストロイヤーの必殺技である「足4の字固め」の激しい攻防となった。ついに足4の字固めを完璧に極められた力道山だが、ギブアップすることなく約10分間耐え抜き、たまりかねたレフェリーが試合を止めて引き分けとなった。試合後も技を解けないめ、やむなく両者のリングシューズをハサミで切って引き離したという逸話がこの試合の壮絶さを物語っている。

指導者としては、日本プロレス界の2大巨頭と呼ばれることになるジャイアント馬場アントニオ猪木を育て上げ、力道山の意思を受け継いだ2人は後のプロレス界に多大な影響を与えた。

豪快で気性の荒い性格の力道山は周囲の人間とのトラブルが多く、特に飲酒時には手が付けられないほど暴れ回り、暴力沙汰は日常茶飯事であったと言われている。この力道山の気性の荒さが災いとなり、1963年に飲食店で男と口論になって腹部を刃物で刺され、同年12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。享年39。

プロレスを世間に認知させ人気娯楽へ押し上げると同時に、日本のプロレスの基盤を築き上げた功績は大きく、日本におけるプロレスの開拓者とも呼べる力道山の存在は、プロレスを語るうえで見過ごすことのできない偉大な存在である。

得意技

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